ドナウ連邦建国史Wikiがついに設立されました! 未だ記事数はわずかですが温かい目で見守りください。

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wiki:亜欧交易 [2025/03/16 13:51] dokuwiki-adminwiki:亜欧交易 [2025/03/16 13:53] (現在) – [前史] dokuwiki-admin
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 1946年にレイキャヴィク休戦協定をもって大東亜戦争と第二次世界大戦が集結し、公海による国際貿易が再開された。しかし、戦争の結果各国の港湾、海峡、航路は戦火で破壊されており、各国とも長期に渡る戦時経済のため通貨価値が不安定な状態にあった。各国は貿易による経済の安定化のため、早急に通商を打ち立てる必要性に迫られた。 1946年にレイキャヴィク休戦協定をもって大東亜戦争と第二次世界大戦が集結し、公海による国際貿易が再開された。しかし、戦争の結果各国の港湾、海峡、航路は戦火で破壊されており、各国とも長期に渡る戦時経済のため通貨価値が不安定な状態にあった。各国は貿易による経済の安定化のため、早急に通商を打ち立てる必要性に迫られた。
  
-こうした事情は日本において特に際立っており、日本は戦時経済の破綻のため「沈淪の時代」と後に呼ばれる経済危機にあった。工業機械が圧倒的に不足していたため物流インフラを維持できず、各地で産出する製品は消費地まで到達できなかったため、各地でハイパーインフレが発生していた。+こうした事情は日本において特に際立っており、日本は戦時経済の破綻のため「[[wiki:沈淪の時代|沈淪の時代]]」と後に呼ばれる経済危機にあった。工業機械が圧倒的に不足していたため物流インフラを維持できず、各地で産出する製品は消費地まで到達できなかったため、各地でハイパーインフレが発生していた。
  
 なお、この頃から「貿易」という言葉は白人帝国主義とその通商制度による反アジア的搾取を意味するようになり、大東亜戦争終結以降の貿易関係は「交易」と呼びかえられるようになった。ここでもそれに従うこととする。 なお、この頃から「貿易」という言葉は白人帝国主義とその通商制度による反アジア的搾取を意味するようになり、大東亜戦争終結以降の貿易関係は「交易」と呼びかえられるようになった。ここでもそれに従うこととする。
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 [[wiki:大東亜統一戦争|大東亜統一戦争]]においてソ連は[[wiki:トルキスタン人民共和国|トルキスタン人民共和国]]を経由して[[wiki:中華人民共和国|中華人民共和国]]に対する大規模な軍事支援を行っていた。日満両軍は新疆と甘粛を経由する援中鉄道線に対する爆撃作戦([[wiki:西北爆撃作戦|西北爆撃作戦]])を展開する一方、中国人民解放軍はソ連製対空兵器で地上から迎撃し、ソ連軍もパイロットを「義勇兵」として派遣し空中から迎撃していた。そのほか、常に半飢餓状態にあった中国が大量徴兵と大規模軍事作戦を展開できたのは、ソ連から食糧援助を受けていたためであった。 [[wiki:大東亜統一戦争|大東亜統一戦争]]においてソ連は[[wiki:トルキスタン人民共和国|トルキスタン人民共和国]]を経由して[[wiki:中華人民共和国|中華人民共和国]]に対する大規模な軍事支援を行っていた。日満両軍は新疆と甘粛を経由する援中鉄道線に対する爆撃作戦([[wiki:西北爆撃作戦|西北爆撃作戦]])を展開する一方、中国人民解放軍はソ連製対空兵器で地上から迎撃し、ソ連軍もパイロットを「義勇兵」として派遣し空中から迎撃していた。そのほか、常に半飢餓状態にあった中国が大量徴兵と大規模軍事作戦を展開できたのは、ソ連から食糧援助を受けていたためであった。
  
-しかし、満洲の電撃的赤化を狙った当初の機甲作戦は失敗し、むしろ大東亜統一軍による反攻を許して華北を失うこととなった。さらに、1976年9月に毛沢東が死去した結果、ソ連と中国を仲介していた高崗は粛清を恐れ、後継者候補の一人毛岸英を連れて蜂起し、戦争は中国の内戦へと転化していく。ソ連は莫大な対中援助を縮小し、中国に対する勢力圏を日本と東西に分割する形で撤退することを企図した。これが実ったのが1978年のソ連仲介による「[[wiki:ノヴォシビルスク休戦協定|wiki:ノヴォシビルスク休戦協定]]」であり、これをきっかけにソ連と大東亜共栄圏は通商を行って一時的に友好を深めることとなった。+しかし、満洲の電撃的赤化を狙った当初の機甲作戦は失敗し、むしろ大東亜統一軍による反攻を許して華北を失うこととなった。さらに、1976年9月に毛沢東が死去した結果、ソ連と中国を仲介していた高崗は粛清を恐れ、後継者候補の一人毛岸英を連れて蜂起し、戦争は中国の内戦へと転化していく。ソ連は莫大な対中援助を縮小し、中国に対する勢力圏を日本と東西に分割する形で撤退することを企図した。これが実ったのが1978年のソ連仲介による「[[wiki:ノヴォシビルスク休戦協定|ノヴォシビルスク休戦協定]]」であり、これをきっかけにソ連と大東亜共栄圏は通商を行って一時的に友好を深めることとなった。
  
 このようにして、従来の亜欧交易路に陸路で満洲国から[[wiki:嶺北|嶺北]]、[[wiki:シベリア共和国|シベリア共和国]]、ソ連へと続く新航路が現れた。ソ連はフランスとの対立([[wiki:仏ソ対立|仏ソ対立]])で孤立し、アジアはドナウや白人諸国との対立で孤立していたため、ここにきて本来相容れないはずの共産主義国家と主体主義国家が呉越同舟の手を握ることとなった。 このようにして、従来の亜欧交易路に陸路で満洲国から[[wiki:嶺北|嶺北]]、[[wiki:シベリア共和国|シベリア共和国]]、ソ連へと続く新航路が現れた。ソ連はフランスとの対立([[wiki:仏ソ対立|仏ソ対立]])で孤立し、アジアはドナウや白人諸国との対立で孤立していたため、ここにきて本来相容れないはずの共産主義国家と主体主義国家が呉越同舟の手を握ることとなった。
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