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wiki:沈淪の時代 [2025/01/23 23:11] – [社会秩序の再建] dokuwiki-admin | wiki:沈淪の時代 [2025/03/20 15:05] (現在) – [古里馬金山開発と金本位制復帰] dokuwiki-admin | ||
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- | ====== 概要 | + | ===== 概要 ===== |
- | ====== 歴史 | + | ===== 歴史 ===== |
- | ===== 前史 | + | ==== 前史 ==== |
第二次世界大戦という人類史上未曾有の大戦争の結果、日本は世界最大の勢力圏を手にすることができた。東は布哇、西はインド、南はニューギニヤ、北は北辺に至る広大な空間は、海洋も含めればチンギス・ハンが遠征で打ち立てたモンゴル帝国をも超える面積だった。モンゴルの巨大な遠征を支えたのは彼ら遊牧民の円滑な物流網で、征服事業の結果ユーラシア大陸は巨大な商業空間として結びつけられた。偉大な征服には賢明な商業が伴うのである。 | 第二次世界大戦という人類史上未曾有の大戦争の結果、日本は世界最大の勢力圏を手にすることができた。東は布哇、西はインド、南はニューギニヤ、北は北辺に至る広大な空間は、海洋も含めればチンギス・ハンが遠征で打ち立てたモンゴル帝国をも超える面積だった。モンゴルの巨大な遠征を支えたのは彼ら遊牧民の円滑な物流網で、征服事業の結果ユーラシア大陸は巨大な商業空間として結びつけられた。偉大な征服には賢明な商業が伴うのである。 | ||
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以上のように、1946年当時の経済は非常に脆弱な基盤の上にあった。戦勝による物資、金融、人間、食糧の大転換が始まったとき、官僚的統制で雁字搦めにされた経済はその変動に耐えられず、脆くも崩壊したのである。 | 以上のように、1946年当時の経済は非常に脆弱な基盤の上にあった。戦勝による物資、金融、人間、食糧の大転換が始まったとき、官僚的統制で雁字搦めにされた経済はその変動に耐えられず、脆くも崩壊したのである。 | ||
- | ===== 中央政界の混乱 | + | ==== 中央政界の混乱 ==== |
指導者なき多頭指導体制により行き当たりばったりな拡大を遂げた日本帝国は、[[wiki: | 指導者なき多頭指導体制により行き当たりばったりな拡大を遂げた日本帝国は、[[wiki: | ||
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組閣とともに鮮やかな武断統治を見せつけた東條は、崩壊する経済と混乱する社会に対する武力闘争を開始したのだった。 | 組閣とともに鮮やかな武断統治を見せつけた東條は、崩壊する経済と混乱する社会に対する武力闘争を開始したのだった。 | ||
- | ===== 道復運動とその弾圧 | + | ==== 道復運動とその弾圧 ==== |
どういうメカニズムであれ、統制経済が上手くいっておらず、しかも崩壊しているという事実はインフレーションによって現れた。価格統制下では物価変動は有り得ないため、実際にはインフレは公定価格ではなく闇市での闇価格において見ることができた。公定価格と闇価格の乖離はすなわち物資の横流しを意味し、物資の不足と産業生産の停止、そして食糧不足という形で可視化されつつあった。 | どういうメカニズムであれ、統制経済が上手くいっておらず、しかも崩壊しているという事実はインフレーションによって現れた。価格統制下では物価変動は有り得ないため、実際にはインフレは公定価格ではなく闇市での闇価格において見ることができた。公定価格と闇価格の乖離はすなわち物資の横流しを意味し、物資の不足と産業生産の停止、そして食糧不足という形で可視化されつつあった。 | ||
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道復運動は「道義世界の建設」を呼びかけた大東亜戦争に裏切られた大衆による、失われた大義をめぐる闘争だった。しかし東條首相はこれに耳を傾けることはなく、憲兵隊と内務省による無慈悲な弾圧で答えたのだった。 | 道復運動は「道義世界の建設」を呼びかけた大東亜戦争に裏切られた大衆による、失われた大義をめぐる闘争だった。しかし東條首相はこれに耳を傾けることはなく、憲兵隊と内務省による無慈悲な弾圧で答えたのだった。 | ||
- | ===== 生産停止と飢餓 | + | ==== 生産停止と飢餓 ==== |
政府は戦後直後はハイパーインフレに対して楽観的だった。物価上昇=貨幣価値の下落は戦時債務の費用圧縮をも意味するため、戦費償却に役立つと見なされていたためであった。しかし、ハイパーインフレが配給と物資動員を破壊するとようやく政府も危機を理解しはじめた。さらに、日本のハイパーインフレが大東亜共栄圏全体のハイパーインフレを助長している関係があり、アジア圏内交易や日本以外のアジア各国の経済を破壊していることが明らかになりつつあった。インフレ率は東京からの距離に比例し、東京での2倍の物価上昇がビルマの[[wiki: | 政府は戦後直後はハイパーインフレに対して楽観的だった。物価上昇=貨幣価値の下落は戦時債務の費用圧縮をも意味するため、戦費償却に役立つと見なされていたためであった。しかし、ハイパーインフレが配給と物資動員を破壊するとようやく政府も危機を理解しはじめた。さらに、日本のハイパーインフレが大東亜共栄圏全体のハイパーインフレを助長している関係があり、アジア圏内交易や日本以外のアジア各国の経済を破壊していることが明らかになりつつあった。インフレ率は東京からの距離に比例し、東京での2倍の物価上昇がビルマの[[wiki: | ||
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こうした食糧供出の苛烈化は、農民を道復運動に参加させる結果を招いた。戦前より石原莞爾の[[wiki: | こうした食糧供出の苛烈化は、農民を道復運動に参加させる結果を招いた。戦前より石原莞爾の[[wiki: | ||
- | ===== 一億総自活へ | + | |
+ | ==== 一億総自活へ ==== | ||
国民は食糧獲得のため様々な手段を取っていた。家庭菜園の製作や農村への直接買い出し、闇での購入だけでなく闇売買を生業とする者も少なくなかった。政府による不完全な配給に対して国民が現場レベルで工夫を凝らすことは戦時中から見られたが、戦後の飢餓は国民を国家指導に従う従順な人々から自発的に生存闘争を繰りひろげる自律的主体に変化させた。当局の統制が緩むにつれて人々は公道を掘り返して家庭菜園を拡張したり、休業中の企業も従業員ぐるみで敷地を畑にしたり、さらには軍用地や他人の私有地を占有して耕作するようにもなった。 | 国民は食糧獲得のため様々な手段を取っていた。家庭菜園の製作や農村への直接買い出し、闇での購入だけでなく闇売買を生業とする者も少なくなかった。政府による不完全な配給に対して国民が現場レベルで工夫を凝らすことは戦時中から見られたが、戦後の飢餓は国民を国家指導に従う従順な人々から自発的に生存闘争を繰りひろげる自律的主体に変化させた。当局の統制が緩むにつれて人々は公道を掘り返して家庭菜園を拡張したり、休業中の企業も従業員ぐるみで敷地を畑にしたり、さらには軍用地や他人の私有地を占有して耕作するようにもなった。 | ||
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人々は失業者や帰郷した復員兵と合流して、次第にその自活を組織化していった。休業した工場の工員で私企業を丸ごと結成したケース、家族や親類、地縁や軍隊時代の同期などきっかけは様々であったが、中にはいわゆる任侠による組織や不良青年による「愚連隊」などもあったという。 | 人々は失業者や帰郷した復員兵と合流して、次第にその自活を組織化していった。休業した工場の工員で私企業を丸ごと結成したケース、家族や親類、地縁や軍隊時代の同期などきっかけは様々であったが、中にはいわゆる任侠による組織や不良青年による「愚連隊」などもあったという。 | ||
- | ===== 自衛隊の結成 | + | ==== 自衛隊の結成 ==== |
経済危機に伴い急増した刑事犯罪は窃盗だった。配給を待つよりも危険を冒して他人から盗む方が簡単であると理解した人々は、次第に日常的に窃盗を犯すようになっていった。当初は管理者の横流し程度だったが、やがては倉庫の襲撃にリヤカー丸ごとの奪取など、その様態も大胆となっていった。 | 経済危機に伴い急増した刑事犯罪は窃盗だった。配給を待つよりも危険を冒して他人から盗む方が簡単であると理解した人々は、次第に日常的に窃盗を犯すようになっていった。当初は管理者の横流し程度だったが、やがては倉庫の襲撃にリヤカー丸ごとの奪取など、その様態も大胆となっていった。 | ||
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政府は1948年頃まで道復運動の弾圧を優先し、こうした治安の急速な悪化への対応を二の次としていた。検察は経済危機の原因を反政府運動参加者のサボタージュとしてスケープゴート化する工作に熱心だった。だが、事態は当局の筋書きに基づく見せしめ裁判で収拾できる段階を既に超えていた。しかしながら、警察も警官が襲撃で殺害されない限り地域の武装闘争には無関心だった。 | 政府は1948年頃まで道復運動の弾圧を優先し、こうした治安の急速な悪化への対応を二の次としていた。検察は経済危機の原因を反政府運動参加者のサボタージュとしてスケープゴート化する工作に熱心だった。だが、事態は当局の筋書きに基づく見せしめ裁判で収拾できる段階を既に超えていた。しかしながら、警察も警官が襲撃で殺害されない限り地域の武装闘争には無関心だった。 | ||
- | ===== 社会秩序の再建 | + | ==== 社会秩序の再建 ==== |
1948年春には飢餓のピークを過ぎた。というのも、配給制度の崩壊を補う闇での市場取引が機能を本格化させ、食糧の流通不全を克服し始めたためである。また、春の気温上昇で植物や動物、昆虫が目覚め、栄養不足をこれらの採取で補えるようになったことも理由の少なからずを占めていた。 | 1948年春には飢餓のピークを過ぎた。というのも、配給制度の崩壊を補う闇での市場取引が機能を本格化させ、食糧の流通不全を克服し始めたためである。また、春の気温上昇で植物や動物、昆虫が目覚め、栄養不足をこれらの採取で補えるようになったことも理由の少なからずを占めていた。 | ||
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相変わらず物資は慢性的に不足していたが、それでも再びハイパーインフレへの突入を避けられたのは先述した流通の改善のほかにも、政府が現金流通抑制のために様々な手段を尽くしていたためである。預金の引き出し制限は新円切替後もしばらく続き、戦時中に発生した国債や戦災保険の支払いを新たに起債した国債や免税権で立替え、企業間の決済を日銀に預けた国策による手形で行う「特殊決済」で行わせた。これら施策のために市中の現金流通量は強力に抑制され、ハイパーインフレ再発を阻止していた。こうした数々のアイデアを生み出した大蔵官僚の経験は、1960年に成立する[[wiki: | 相変わらず物資は慢性的に不足していたが、それでも再びハイパーインフレへの突入を避けられたのは先述した流通の改善のほかにも、政府が現金流通抑制のために様々な手段を尽くしていたためである。預金の引き出し制限は新円切替後もしばらく続き、戦時中に発生した国債や戦災保険の支払いを新たに起債した国債や免税権で立替え、企業間の決済を日銀に預けた国策による手形で行う「特殊決済」で行わせた。これら施策のために市中の現金流通量は強力に抑制され、ハイパーインフレ再発を阻止していた。こうした数々のアイデアを生み出した大蔵官僚の経験は、1960年に成立する[[wiki: | ||
- | なお、日本が新円切替を実施した1949年には、同じく経済回復を進めていた中華民国でもデノミネーションが実施された。そこで通用した通貨を「金円」と呼んだ。 | + | なお、日本が新円切替を実施した1949年には、同じく経済回復を進めていた中華民国でもデノミネーションが実施された。そこで通用した通貨を「金円」([[wiki: |
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+ | ===== 復興要因 ===== | ||
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+ | ==== 外地への人口移動 ==== | ||
+ | 慢性的な食糧不足が解消へと向かい始めた原因の一つは外地への移民だった。先述の[[wiki: | ||
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+ | ^ 西暦 | ||
+ | | 1946 | 80万 | | ||
+ | | 1947 | 360万 | ||
+ | | 1948 | 360万 | ||
+ | | 1949 | 250万 | ||
+ | | 1950 | 100万 | ||
+ | | 1951 | 100万 | ||
+ | | 1952 | 80万 | | ||
+ | | 1953 | 80万 | | ||
+ | | 1954 | 50万 | | ||
+ | | 1955 | 50万 | | ||
+ | | 1956 | 50万 | | ||
+ | | 1957 | 20万 | | ||
+ | | 1958 | 10万 | | ||
+ | | 1959 | 10万 | | ||
+ | | 1960 | 10万 | | ||
+ | |||
+ | 上記は1946年から1960年にかけての内地から満洲国への移住者(大和民族に限る)である。このとき移住した者の多くは経済破綻による失業者や食糧供給のか細い地方都市住民であったと言われている。また、東條政権による軍縮政策で解体された関東軍も、日本軍から満洲国軍へ転籍する形で現地化し、移住者の数字に加えられている。 | ||
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+ | 内地から外地への移住は、満洲国だけでなく北樺太や勘察加、南方などでも見られた動きだった。この結果、内地の都市人口は減少して食糧供給のコストも減少し、食糧不足に一定の歯止めが掛けられることとなった。 | ||
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+ | ==== 国内産業の市場経済化 ==== | ||
+ | 経済破綻の結果、戦時中に整備された非効率的な経済構造が解体され市場経済に基づく最適な形に再編されたことも経済復興の一因となった。本来、日本の戦時経済とは既存の経済団体を丸抱えしたものであったため、開戦以前の非効率的な旧弊を温存するだけでなく、経済団体の発言力を戦時強力の名目で確保してしまうため、機動力に欠けていたのである。戦時中に整備された統制会社とは各業界団体にそのまま物資配分の権利を与えたものであったため、計画外の横流しや闇市場への流通が頻発した。また、統制会社関係は政府の補助金を受け取るために乱立したペーパーカンパニーの拠点ともなっていた。 | ||
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+ | 市場経済の浸透は、それまで統制価格で歪められていた製品の価値と流通網を破壊し、効率的な配分を実現することを意味していた。このことはハイパーインフレの沈静化にも役に立つこととなった。 | ||
+ | この他、経済危機を踏まえて大企業を含む大量の企業が再編されたほか、従業員の食糧供給の確保という目的のためにも外地へ設備や従業員ごと分社する企業も相次ぎ、さらには商機を求めて企業ごと外地へ移転する例も見られた。こうした現象は先述の外地への移住熱に拍車をかけた。 | ||
+ | ==== 古里馬金山開発と金本位制復帰 ==== | ||
+ | そのほか、日本帝国国内における金山の開発も円貨の再建と経済の回復に寄与した。黄金は金正貨と呼ばれ貨幣価値を担保する中央銀行の準備として重用された。[[wiki: | ||
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+ | 大東亜戦争の結果日本が獲得した旧[[wiki: | ||
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+ | 当時の北辺総督は東亜解放の英雄[[wiki: | ||
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+ | 大東亜戦争のシベリア戦線では大量のロシア軍将兵が捕虜となり、戦後も満洲国国内の強制収容所に収容されていた。ロシア共和国が崩壊したため彼らを保護し引き取る国家はなかったのである。そこで、元ロシア軍の捕虜の活用策として、強制労働による土木インフラ整備が考案された。こうして陸軍軍人同士のコネから関東軍保護下のロシア人捕虜は北辺総督府に送られ、日本軍兵士の監視下で無からのインフラ建設と古里馬金山開発を行うこととなった。過酷な環境で強制労働を行った捕虜の多くは、平均寿命2年間と呼ばれるペースで次々と死亡したほか、監視役の日本軍兵士も過酷な環境のために少なからぬ死亡者を出した。突貫工事に告ぐ突貫工事と人命を全く無視した労働環境のおかげで北辺開発は軌道に乗り、1948年から金を内地へ出荷できるようになった。 | ||
- | ====== | + | このようにして大量の人命を犠牲に古里馬金山の開発は成功したため、日本の金正貨準備は増加し、通貨価値再建と1949年のデノミネーションと金本位制復帰を成功に至らしめたのだった。なお、板垣征四郎はこの功勲もあり、[[wiki: |
- | ===== 国内産業の市場経済化 ===== | ||
- | ===== 古里馬金山開発と金本位制復帰 ===== | + | ==== 「池田の実験」と亜欧交易 |
- | ===== 「池田の実験」と亜欧交易 | + | // |
- | ====== 余波 | + | 南方では[[wiki: |
+ | ===== 余波 ===== | ||
- | ===== 戦後翼賛体制の成立 | + | ==== 戦後翼賛体制の成立 ==== |
- | ===== 国内産業構造の変化 | + | ==== 国内産業構造の変化 ==== |
- | ===== 束の間の「自由」と政治的トラウマ | + | ==== 束の間の「自由」と政治的トラウマ ==== |