ドナウ連邦建国史Wikiがついに設立されました! 未だ記事数はわずかですが温かい目で見守りください。

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wiki:沈淪の時代 [2025/03/20 14:47] – [古里馬金山開発と金本位制復帰] dokuwiki-adminwiki:沈淪の時代 [2025/03/20 15:05] (現在) – [古里馬金山開発と金本位制復帰] dokuwiki-admin
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 大東亜戦争の結果日本が獲得した旧[[wiki:ロシア共和国|ロシア共和国]]領土の沿アムール州カムチャツカ県には金山が複数あることが知られていた。ロシア共和国時代から金山の開発は行われていたが、ロシア本土から隔絶された辺境であり、現地のインフラ不足からその開発は振るわなかった。日本は戦勝の結果、旧ロシア共和国の[[wiki:ヴェルホヤンスク山脈|ヴェルホヤンスク山脈]]以東の[[wiki:オホーツク海|オホーツク海]]沿岸を併合し、カムチャツカ半島には[[wiki:勘察加庁|勘察加庁]]を、それ以外の地域には[[wiki:北辺総督府|北辺総督府]]をそれぞれ1947年に設置して統治にあたった。ちなみに、気候と土壌に恵まれた勘察加庁には内地から開拓民が精力的に送り込まれていた。同地域の金山の中でも北辺総督府のマガダン漁港(後の[[wiki:真潟|真潟]]市)近くにあるコルイマ金山は特に有望とされ、北辺総督府はこの開発に重点的にあたることとした。これが有名な古里馬金山である。 大東亜戦争の結果日本が獲得した旧[[wiki:ロシア共和国|ロシア共和国]]領土の沿アムール州カムチャツカ県には金山が複数あることが知られていた。ロシア共和国時代から金山の開発は行われていたが、ロシア本土から隔絶された辺境であり、現地のインフラ不足からその開発は振るわなかった。日本は戦勝の結果、旧ロシア共和国の[[wiki:ヴェルホヤンスク山脈|ヴェルホヤンスク山脈]]以東の[[wiki:オホーツク海|オホーツク海]]沿岸を併合し、カムチャツカ半島には[[wiki:勘察加庁|勘察加庁]]を、それ以外の地域には[[wiki:北辺総督府|北辺総督府]]をそれぞれ1947年に設置して統治にあたった。ちなみに、気候と土壌に恵まれた勘察加庁には内地から開拓民が精力的に送り込まれていた。同地域の金山の中でも北辺総督府のマガダン漁港(後の[[wiki:真潟|真潟]]市)近くにあるコルイマ金山は特に有望とされ、北辺総督府はこの開発に重点的にあたることとした。これが有名な古里馬金山である。
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 +{{ :wiki:古里馬金山02.jpg?200|}}
  
 当時の北辺総督は東亜解放の英雄[[wiki:板垣征四郎|板垣征四郎]]陸軍大将である。板垣の北辺総督就任は、彼の政治的影響力と国民の支持を[[wiki:東條英機|東條英機]]が恐れ、なるべく東京から離れた辺境に赴任させたためといわれる。総督といえど北辺総督府領は一面の北極圏内の荒地であり、まばらな漁村を除いて本格的な都市はなかった。総督府の行政部門は軍縮で転任した少数の元軍人や板垣を個人的に慕うアジア主義者しかなく、その広大な土地を支配するためにはあまりにも少なすぎた。内地の混乱で中央からの援助も頼れないため、北辺総督府は旧来の軍人同士のコネを活用して北辺開発を行うこととなった。 当時の北辺総督は東亜解放の英雄[[wiki:板垣征四郎|板垣征四郎]]陸軍大将である。板垣の北辺総督就任は、彼の政治的影響力と国民の支持を[[wiki:東條英機|東條英機]]が恐れ、なるべく東京から離れた辺境に赴任させたためといわれる。総督といえど北辺総督府領は一面の北極圏内の荒地であり、まばらな漁村を除いて本格的な都市はなかった。総督府の行政部門は軍縮で転任した少数の元軍人や板垣を個人的に慕うアジア主義者しかなく、その広大な土地を支配するためにはあまりにも少なすぎた。内地の混乱で中央からの援助も頼れないため、北辺総督府は旧来の軍人同士のコネを活用して北辺開発を行うこととなった。
  
-大東亜戦争のシベリア戦線では大量のロシア軍将兵が捕虜となり、戦後も満洲国国内の強制収容所に収容されていた。ロシア共和国が崩壊したため彼らを保護し引き取る国家はなかったのである。そこで、元ロシア軍の捕虜の活用策として、強制労働による土木インフラ整備が考案された。こうしてロシア人捕虜は北辺総督府に送られ、日本軍兵士の監視下で無からのインフラ建設と古里馬金山開発を行うこととなった。過酷な環境で強制労働を行った捕虜の多くは、平均寿命2年間と呼ばれるペースで次々と死亡したほか、監視役の日本軍兵士も過酷な環境のために少なからぬ死亡者を出した。突貫工事に告ぐ突貫工事と人命を全く無視した労働環境のおかげで北辺開発は軌道に乗り、1948年から金を内地へ出荷できるようになった。+{{ :wiki:古里馬金山01.jpg?200|}}
  
-このようにして大量の人命を犠牲に古里馬金山の開発は成功したため、日本の金正貨準備は増加し、通貨価値再建と1949年のデノミネーションを成功に至らしめたのだった。+大東亜戦争のシベリア戦線では大量のロシア軍将兵が捕虜となり、戦後も満洲国国内の強制収容所に収容されていた。ロシア共和国が崩壊したため彼らを保護し引き取る国家はなかったのである。そこで、元ロシア軍の捕虜の活用策として、強制労働による土木インフラ整備が考案された。こうして陸軍軍人同士のコネから関東軍保護下のロシア人捕虜は北辺総督府に送られ、日本軍兵士の監視下で無からのインフラ建設と古里馬金山開発を行うこととなった。過酷な環境で強制労働を行った捕虜の多くは、平均寿命2年間と呼ばれるペースで次々と死亡したほか、監視役の日本軍兵士も過酷な環境のために少なからぬ死亡者を出した。突貫工事に告ぐ突貫工事と人命を全く無視した労働環境のおかげで北辺開発は軌道に乗り、1948年から金を内地へ出荷できるようになった。 
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 +このようにして大量の人命を犠牲に古里馬金山の開発は成功したため、日本の金正貨準備は増加し、通貨価値再建と1949年のデノミネーションと金本位制復帰を成功に至らしめたのだった。なお、板垣征四郎はこの功勲もあり、[[wiki:富永恭次|富永恭次]]政権下の1952年に東條英機と並んで元帥となった。
  
  
 ==== 「池田の実験」と亜欧交易 ==== ==== 「池田の実験」と亜欧交易 ====
  
 +//詳細は[[wiki:亜欧交易|wiki:亜欧交易]]を参照。//
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 +南方では[[wiki:馬来庁|馬来庁]]長官[[wiki:池田勇人|池田勇人]]の活躍の結果、ドナウ連邦など中央ヨーロッパ諸国との交易スキームである亜欧交易が整備された。内地の経済破綻にもかかわらず交易は順調に進展しており、大東亜共栄圏で不足していた機械部品を輸入することでアジア経済全体を底上げした。さらに、池田は交易の利益を事実上の外貨準備として利用できるように整備したため、円貨の価値回復へとつながった。こうした一連の政策を「池田の実験」と呼ぶ。
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