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ティモール作戦

ティモール作戦(ティモールさくせん)とは、大東亜戦争序盤の1942年から1943年初頭にかけて、小スンダ列島ティモール島をめぐって争った、日本軍と同盟国軍間の戦いである。日本側はティモール作戦、協和党時代にはティモール解放戦争またはティモール反帝民主化闘争とも呼んだ。

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背景

1941年12月8日に勃発した大東亜戦争は、同時期に進行していた第二次世界大戦の一部として、反帝国主義とアジア人種の主体確立のための歴史的闘争として遂行された。開戦同日に日本海軍はドイツ領インドシナカムラン湾、ドイツ領ポリネシアのグアム島サイパン島を攻撃してドイツ海軍艦艇を多数撃沈し、日本陸軍も開戦以前に占領していたフィリピンを拠点としてマレー作戦、独印作戦、蘭印作戦を始動し、快進撃を遂げていた。

ティモール島とはオランダ領東インド東部に位置する。小スンダ列島の東端にあり、ここから南にはオーストラリア大陸北部が存在した。オーストラリアに対する進撃の玄関口であっただけでなく、オーストラリア北部を空襲できるインドネシアの数少ない島であった、ここからポートダーウィンまでは、戦闘機と爆撃機による戦爆連合が活動可能な片道1000kmにギリギリ収まる距離だった。そのため、ティモール島は日本軍と同盟国軍にとっては戦略的重要地であった。

島の西半分はオランダ領、東半分はポルトガル領の植民地であり、ポルトガルは大戦中に中立的立場を取っていた。オーストラリアは開戦直後の1941年12月、ティモール島確保のためにポルトガル領に無断で上陸し、日本軍に対する防備を固めた。この部隊を「スパロー部隊」といい、豪州軍を中心としつつ、蘭印軍敗残兵やドイツ軍、イギリス軍の増援部隊を逐次糾合し、一大戦力へと拡大することとなる。

対する日本軍は蘭印作戦の一環としてティモール島の攻略を計画した。ただし、同盟国軍の意図を見抜いておらず、あくまでジャワ島攻略のための事前の支作戦としてティモール作戦は策定されたのである。日本軍が強力な同盟国軍の存在を察知し、豪北空襲を見据えた島の確保のための大軍を送り込むのは、1942年の夏を待たねばならない。同年3月9日にはすでにジャワの蘭印軍が降伏しており、ティモール作戦は蘭印作戦の範囲から独立した大戦役となりつつあった。

作戦の経過

蘭印作戦

日本軍の上陸

オランダ領東インド制圧を目論む日本軍は、1942年2月3日に蘭印東部のマルク諸島アンボンを占領、2月4日に日本軍ジャワ島上陸の阻止を狙う同盟国軍艦隊をジャワ沖海戦で退け、さらには2月14日にスマトラ島パレンバンに空挺強襲を行った。日本軍はジャワ島制圧へ向けた支作戦としてティモール作戦を策定し、2月7日にこれを開始した。担当部隊は第38師団の東方支隊と海軍空挺部隊だった。

2月19日から20日にかけてティモール島東部(ポルトガル領)の首都ディリに東方支隊の一部約1500人が上陸し、同じ頃島西部(オランダ領)の中心都市クパンに東方支隊の一部約4000人が上陸した。さらにクパン内陸の蘭印軍飛行場には、海軍横須賀特別陸戦隊の空挺兵約300人が強襲降下し、飛行場の奪取に成功した。ポルトガル領ティモール総督は中立を標榜しつつも実際は同盟国側に傾倒しており、ディリに豪州軍の上陸を受け入れる予定だった。上陸予定日に偶然日本軍が上陸したため、同盟国軍と勘違いして迎撃しなかったと言われる。

同盟国軍の遊撃戦

日本軍は島への上陸に成功したが、確保したのはクパンとディリという行政中心地のみであり、いわば「点」に過ぎなかった。

大東亜戦争開戦直後に島に上陸していた豪州軍部隊はディリを脱出して島内陸部の山中に移動していた。ウィリアム・ガレット中佐(当時)を司令官として同盟国軍はスパロー部隊を結成し、同盟国寄りの総督府行政機構や白人に親和的な原住民(多くはキリスト教徒だった)の援助を得つつ、遊撃戦(ゲリラ戦)を開始した。

同盟国側は当初スパロー部隊の活動を感知していなかった。部隊とオーストラリア軍との通信が途絶したためである。1942年3月下旬にはスパロー部隊が自力で無線機を組み立て、ポートダーウィンとの連絡を確保した。在島部隊がすでに降伏していたと考えていた豪州軍は歓喜し、部隊への掩護と増援を約束した。

ティモール島はオーストラリア北部に面しており、同島の確保が豪北への空襲実施に不可欠な条件だった。蘭印の降伏で本土への空襲の脅威にさらされた豪州軍は、スパロー部隊増援と島全域の奪還を遂げ、ティモール島を「防空要塞」化して日本軍占領地に対する楔を打つ戦略であった。スパロー部隊に対しては航空機による物資のパラシュート投下や偽装漁船による島南部への物資揚陸がほそぼそと行われていた。しかし、抜本的掩護のためには、艦隊をもって制海権を確保し、船団をもって大量の物資を揚陸する必要があったのだった。

同盟国軍の合作・ティモール島沖海戦

この頃、欧州戦線で総力戦を展開していた同盟国はアジアにおける新たな戦線の展開に狼狽していた。イギリスはシンガポールを失陥しただけでなくビルマへの侵入を許し、オランダは蘭印をすでに失い、すでに独印を失ったドイツはドイツ領ポリネシアに対する日本軍の上陸の脅威に晒されていた。同盟国は枢軸国に相対しながら、特にアジアにおいては各々独自に戦う状態にあった。このため、同盟国の間ではアジアにおける統一司令部の創設を待望する声があった。

同盟国の中でもドイツ帝国は、広大な島嶼部を防衛する巨大艦隊を保有しながら、陸上兵力が不足していた。これに対して、本土を蘭印に接して日本軍を最も脅威とするオーストラリアは陸上兵力が一定数あったがまとまった艦隊がなかった。イギリスは宗主国でありながら、ビルマ戦線とセイロン沖海戦に忙殺されており豪州に必要な援助を出す余力がなかった。オーストラリアとドイツ、この双方の思惑が一致しこの2国を中心として共同司令部の設立が建議された。トーマス・ブレーミー豪州軍元帥とヴィルヘルム・カナリス独海軍大将の会談と合意を経て、1942年4月18日に独豪太平洋共同司令部が設立された。この司令部にはのちにイギリスやオランダなどの同盟国各国が加わることとなった。

司令部がシドニーに設立された2日後の4月20日、ドイツ海軍の空母機動部隊を中心とする同盟国艦隊が、オーストラリア軍を中心とする同盟国陸上部隊を満載してティモール島へ向かった。ディリとクパンをわずかに支配する日本軍にこれを阻止する能力はなかった。当時豪北沖に連合艦隊機動部隊が豪北空襲のために航行していたが、同盟国艦隊の接近を感知することができなかった。日本陸軍ではアンボンなどの島周辺の飛行場に陸上攻撃機を配備していたが、戦闘機は未だ到着していなかった。艦隊に戦闘機の掩護無しで陸攻をぶつけることは自殺行為に等しかったが、窮地の陸軍は迎撃を敢行。陸攻17機を中心に艦隊を迎撃したが、内15機を喪失するに終わった。

ティモール島へ攻め込む同盟国軍艦隊にはドイツ海軍の空母リヒトホーフェンが配備してあったが、設計に欠陥がありダメージコントロール能力が不全だった。日本軍の攻撃で同じく窮地に陥った同盟国軍艦隊であったが、あえて強襲上陸を決断した。こうして、作戦を中止せずそのままティモール島南岸に至り、同盟国軍陸上部隊約6000人の揚陸に成功したのだった。これをティモール島沖海戦という。

こうしてティモール島における両国の戦力バランスは均衡した。ただし、日本軍はクパンとディリに、同盟国軍は島内陸部と南岸に配置されており、ここから移動して両軍が会戦を行うには、相当の準備が必要だった。当時、ティモール島には舗装道路が皆無だった。また、もし同盟国軍がさらなる蛮勇をもって、陸上部隊を日本軍支配地から離れた島南岸でなく日本軍支配地に強襲揚陸していれば、この戦いの結末は同盟国の完全勝利に終わっていたとも後世には評されている。とはいえ、当時の同盟国軍艦隊は、日本軍がティモール島海戦をもって迎撃戦力を完全に消尽していたとはつゆも知らなかった。

しかしながら、ティモール島沖海戦による上陸の成功は、それまで敗戦続きの同盟国に希望と自信を与えることとなった。一方日本軍は不意打ちによる同盟国軍の反攻に驚き、日本側もまたティモール島への戦力投入を余儀なくされることとなる。

消耗戦

同盟国軍の反攻

青葉支隊の上陸

日本軍の反撃

終末戦

クパン奪還

同盟国軍の撤退

戦略的意義