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カザフ大虐殺
カザフ大虐殺とは1946年から1948年にかけて、中央アジアで行われたカザフ人に対する民族浄化である。虐殺を逃れたカザフ人は日本軍支配地域へと大移動を行い、辿り着いた旧エニセイ県エニセイ郡とカンスク郡あたりに「東カザフ国」を建国した。
概要
カザフ人は中央アジアに住むテュルク系遊牧民族である。しかしながら、カザフ人居住地は放牧だけでなく農耕にも有望なため、歴史的にロシア人やウクライナ人などの移住による圧迫を受けていた。戦間期のロシア共和国の時代においても土地を巡る紛争が散発し、小規模な虐殺事件が繰り返されていた。このロシア人とカザフ人の関係について、後世の日本のアジア主義知識人はモンゴル族と漢族の土地紛争との類似性を指摘している。すなわち、カザフ人はロシア人の農耕世界であるシベリアの南端に接する、テュルク人の遊牧世界の北端に位置していた。
第二次世界大戦の熾烈を極めた東部戦線の激闘は枢軸軍の勝利に終わり、アントン・デニーキン大統領が戦死したことによりロシア共和国政府は瓦解した。さらに、1945年には日本が日露中立条約を破って沿海州へ侵攻したため、ロシア共和国の残存勢力は東西から挟撃を受けることとなった。
中央アジアとシベリアに残るロシア共和国残存勢力は政府瓦解による無政府状態もあって、恐慌に陥った。結果として国内ではウクライナ・ラーダ社会主義共和国または日本の「スパイ」の激烈な摘発闘争が展開された。このパラノイアを正当化するように、中央アジア南部ではウクライナの工作で1946年12月1日に「トルキスタン人民共和国」が成立し、バイカル湖より東のシベリア東部では日本軍の工作で非ロシア系民族による武装蜂起が発生した。普段からロシア人およびロシア共和国政府に疎外されていたカザフ人は貧農かつアジア人であったため、サンディカリストかつアジア主義者として抹殺対象となったのである。
1946年夏の第二次世界大戦終結に前後して、シベリアよりカザフ人への組織的な虐殺が開始された。軍部残党と民兵は残存行政の指示に従ってカザフ人村落を襲撃し、生き残ったカザフ人から食糧や財産などを没収して荒れ地に追放した。カザフ人側もロシア共和国軍の復員兵を中心に戦闘組織を結成し、抵抗とともに虐殺の報復を展開していった。
このような事態に対し、日本軍は虐殺の応酬を鎮めるのでなくむしろ煽動していった。1946年10月26日にはチタで蒙古駐屯軍の独断先行による「北方民族会議」が開催され、カザフ人を含むアジア系少数民族代表者が参加し、独立闘争が激励された。トルキスタンが成立する直前の11月29日にカザフ人勢力は「カザフ軍団」を名乗って「アラシュ・オルダ」というカザフ人国家の独立を宣言した。しかし、その領地の大半はロシア人や中央アジア南部のサンディカリストの掌握下にあった。こうした急変する情勢に対し、現地日本軍のアジア主義強行派である辻政信は参謀の立場で「北方民族に告ぐ」を発表。「黄色テロルを発動せよ!」と呼号しただけでなく、シベリアや中央アジアへ特務工作員を送り込み、人種紛争・民族紛争を助長したのであった。
日本軍は特務工作と軍事介入を通じてサハ国、トゥバ国、ミヌシンスク政府、アルタイ国など次々とアジア系民族を独立させたが、カザフ人の住む中央アジア北部は距離が遠くその工作は困難を極めた。カザフ軍団はトルキスタン人民共和国とシベリア共和国に南北から挟撃されてじわじわと支配地域を失い、ついに民族の絶滅を避けるために日本軍支配地域へ向けて大移動を決断した。これを「カザフ大移動」または「カザフ人の東遷」という。
辻政信に煽動された日本軍は支配地域を広げるためまたもや独断先行で軍事行動を起こし、1947年5月から始まった「サヤン作戦」でイルクーツクから剣河(エニセイ川)までの地域を制圧した。ここに西から移動してきたカザフ軍団と合流し、カザフ人難民をクラスノヤルスクからカンスクあたりまでの地域に入植させた。カザフ軍団はこの地で「東カザフ国」を建国。「東」とあるのは虐殺と移住で失われた原郷をいつか回復せんという民族的決意がこめられているという。
犠牲者数
1946年当時、カザフ民族は全体で約400万人ほどいたとされる。このうち戦争末期の混乱と虐殺のため約100万人が死亡し、約140万人が大移動に参加した。日本軍によれば入植したのは約105万人で、後の東カザフ国に約101万人、アルタイ国に約4万人である。アルタイ国は同じテュルク系民族のアルタイ人の国家だが、数の上でロシア人に圧倒されていたので、カザフ人を歓迎した。 移動に参加せず虐殺から生き残ったのは約160万人だが、居住しているのはソ連とトルキスタンのみで、シベリア共和国からは文字通り絶滅したと言える。この虐殺の結果シベリア共和国は中央アジア北部を併合する形でシベリアの領土を増やし、ソ連と日本から逃れたロシア人難民の土地を確保したのだった。
報復
大虐殺を受けてカザフ人は入植先でロシア人住民への虐殺を繰り返した。土地と財産を奪って入植し、かつて自民族が被った受難を他民族へもたらす立場となった。さらに、東京から半独立的な関東軍の指示により嶺北諸国からロシア人住民の満洲国への強制移住が度々行われ、代わりに満洲国から流刑囚や自発的入植者の満人が大量に送り込まれ、地図の色を塗り替えたのだった。
カザフ人大移動の著名な参加者
サドゥク・アマンジョロフ(Аманжолов, Садык Аюкеевич) ハレル・ガッバソフ(Габбасов, Халел Ахметжанулы) アリジャン・バイグリン(Байгурин, Альжан Махмудович) ハレル・ドスムハメドフ(Досмухамедов, Халел Досмухамедович) ミルジャキル・ドゥラトフ(Дулатов, Миржакип) テリ・ジャマンムルィノフ(Жаманмурынов, Тель Букпанович) バザルバイ・マメトフ(Маметов, Базарбай) ムスタファ・ショカイ(Шокай, Мустафа) シャハン・アルギバエフ(Аргинбаев, Шахан) サガダト・ヌルマガムベトフ(Нурмагамбетов, Сагадат Кожахметович) タルガト・ベゲリディノフ(Бегельдинов, Талгат Якубекович) ラヒムジャン・コシュカルバエフ(Кошкарбаев, Рахимжан Кошкарбаевич) マリク・ガブドゥルリン(Габдуллин, Малик) 後の東カザフ国指導者。 カスィム・カイセノフ(Кайсенов, Касым) マフメト・カイルバエフ(Каирбаев, Махмет Каирбаевич) カリム・ヌルバエフ(Нурбаев, Карим Нурбаевич) バルガベク・スレイメノフ(Сулейменов, Балгабек Камелевич) ムタシュ・スレイメノフ(Сулейменов, Муташ) セリク・キラバエフ(Кирабаев, Серик Смаилович) ボタイ・バイザコフ(Байзаков, Ботай)