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ノヴォシビルスク休戦協定
概要
1973年に毛沢東率いる中華人民共和国による満州国と蒙古国への一方的侵攻で始まった大東亜統一戦争は、毛沢東の死去や高崗の反乱、江青の反乱、韓先楚の蜂起などを経て中国が瓦解し、さらに日本を盟主とする東亜統一軍が中国の主要地域を占領することで戦争終結へと向かっていった。
相次ぐ反乱のため本来の中華人民共和国政府は瓦解し、各地に地域主義者や民族独立派の政権が乱立したため、日本はこれら政府を包括した全体的な停戦協定の策定を行うこととなった。
新疆省迪化に臨時首都を置く、毛沢東の息子毛岸英と後見人高崗が率いる中華人民共和国(迪化政府)とは長期に渡り交渉が続いていた。迪化政府は戦争の「黒幕」ソ連と関係が深い「親ソ派」であり、ソ連は戦争中に中国への軍事支援を行っていた。しかし、一方で反ソ傾向を隠さない毛沢東をソ連は警戒し、中国政府を支援する一方で親ソ派の高崗擁立へ工作を援助したり、戦後構想を巡って敵国であるはずの日本とシベリア共和国で秘密裏に交渉を重ねるなど、複数の可能性に賭けた老獪な手腕を発揮していた。一方、江青と毛遠新率いる文化大革命における旧造反派を中心とした中華人民共和国(武漢政府)は毛沢東思想の激烈な信奉者を中心に成り立っており、敗戦や領土の妥協に対して最も強硬に反対する青年愛国者が政権の中核であったころから、戦争中に謀反を起こした高崗は彼らにとって「最大の裏切り者」「大漢奸」だった。そのため停戦交渉への参加はもちろん、迪化政府との共存すら絶対反対だった。軍事独裁路線の林彪派も過激な造反派紅衛兵をも疎む、農村部の堅実な左派党幹部を中心に支持されていた韓先楚政権は停戦賛成ではあったが迪化政府と武漢政府との共存は反対だった。このような中国側の政府分裂のため停戦交渉は困難を極めた。