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亜欧交易
亜欧交易(あおうこうえき)とは大東亜共栄圏と中央ヨーロッパ間の交易である。とりわけ、昭南を経由地とするドナウ連邦と日本の交易関係を指すことが多い。日本・ドナウ交易、日度交易とも。
概要
日本とドナウの交易関係は戦間期から行われていたが、その規模は他国に比べて微々たるものだった。日本とドナウの交易量が増大し、日本にとっての大東亜共栄圏外における主要交易相手となるのは戦後のことである。亜欧交易は大東亜共栄圏に産業機械や技術を提供し、ドナウには天然ゴムなどの南洋特産物、後には大東亜共栄圏で育った第二次産業による工業製品が提供された。決済は日本とドナウが共同で設立した日度銀行、のちの亜欧銀行で清算された。
歴史
前史
1938年11月の日本の反帝協定の調印、そして1940年9月の日ド仏ウ四国同盟の結成により、日本国内では対ドナウ貿易の拡大とドナウの工業技術の輸入が提起されていた。しかし、大東亜戦争により両国の貿易は停滞し、この間にはわずかな数の封鎖突破潜水艦が少数の人員と設計図、工作機械の部品を日本に持ち帰ったのみの成果に終わった。
1946年にレイキャヴィク休戦協定をもって大東亜戦争と第二次世界大戦が集結し、公海による国際貿易が再開された。しかし、戦争の結果各国の港湾、海峡、航路は戦火で破壊されており、各国とも長期に渡る戦時経済のため通貨価値が不安定な状態にあった。各国は貿易による経済の安定化のため、早急に通商を打ち立てる必要性に迫られた。
こうした事情は日本において特に際立っており、日本は戦時経済の破綻のため「沈淪の時代」と後に呼ばれる経済危機にあった。工業機械が圧倒的に不足していたため物流インフラを維持できず、各地で産出する製品は消費地まで到達できなかったため、各地でハイパーインフレが発生していた。
なお、この頃から「貿易」という言葉は白人帝国主義とその通商制度による反アジア的搾取を意味するようになり、大東亜戦争終結以降の貿易関係は「交易」と呼びかえられるようになった。ここでもそれに従うこととする。
1947年にはドナウ連邦からドナウ社会主義労農党のイデオローグであるホライ・ルーリンツがローゼッカ青年団代表団とともに日本、中華民国、満洲国を歴訪した。ホライはここでドナウ連邦と大東亜共栄圏における政治、経済、文化の交流を呼びかけ、以降日本とドナウの友好的交流の時代が始まることとなる。このとき亜欧交易を現場で管理する日度銀行がドナウ中央銀行と日本銀行、そしてドイツが旧ドイツ領インドシナに残した資産を元に設立されたのだった。
亜欧交易の始動
1948年、昭南特別市に本社を置く日度銀行が開業し、亜欧交易は本格的に始動した。大東亜戦争中にイギリス軍のスマトラ島上陸作戦と反攻で荒れ果てたマラッカ海峡の掃海がようやく完了しひとまず航路の安全を確保できたため、ヨーロッパからの商船を昭南港に迎え入れることが出来た。亜欧交易の荷揚げ・荷積み作業は昭南港で行われた。日本側は昭南港で荷揚げされた輸入商品を交易営団の船に積替え、日本や満洲など各国へ再配分していった。すなわち、亜欧交易で取り扱う商品の大東亜共栄圏内部での運送は、日度銀行ではなく日本など各国の交易機関や金融機関が行っていた。日度銀行は昭南での業務に集中することで、昭南港での積替えの効率化を図り、さらには昭南港そして昭南特別市の政治的・経済的価値の上昇へとつなげることが出来た。
初期の亜欧交易において、ドナウ連邦は天然ゴム、除虫菊、米、天然繊維を要求し、日本は産業機械、機械部品、クロムなど希少金属を要求した。これは戦前における欧州とアジアの植民地貿易とほとんど変わらない産品の組み合わせであり、大東亜共栄圏が未だに植民地時代の経済構造を残していたことを物語っている。日本の天然繊維は生糸に始まる戦間期の輸出商品であり、当時の日本の外貨のほとんどを稼いでいた。しかし、日本は民需部門の軍需移転のために繊維産業がほとんど閉鎖され、経済危機のために繊維製造の再開ができていなかった。それだけでなく、大東亜共栄圏全体で布製品が不足していたので、結局日本は繊維輸出を拒否した。除虫菊と米はドナウ連邦のアフリカ開発(ユーラフリカ)のために緊急に必要だった。大東亜共栄圏全体で食糧が不足していたのにもかかわらず、日本はサイゴン米の対ド輸出を許可し、いわゆる飢餓輸出を行うこととなった。その引き換えに日本が得られるのは産業機械などであり、これは当時の日本の技術と生産規模ではとても自給できないものだった。
このような商品の組み合わせで亜欧交易は開始され、経済危機が続く大東亜共栄圏経済に久しぶりの好影響をもたらすこととなった。
「池田の実験」
亜欧交易は当初想定されていた交易による必要物資の獲得という目的を超え、大東亜共栄圏経済全体に影響を及ぼすこととなる。大蔵官僚の池田勇人は南方軍顧問、1947年に創設された馬来庁初代長官(勅任官)に就任し、馬来と昭南の民政における事実上の最高指導者となった。ここで池田は亜欧交易を振興するとともに、交易において特殊な金融スキームを盛り込んだ。すなわち、交易の対欧輸出利益=対欧輸入権に流動性を与えたのである。
当時の南方経済は日本本国のハイパーインフレに伴い、これを超える強烈なインフレーションを被っていた。戦時中に乱発された南方開発金庫券いわゆる南発券は事実上の軍票であったとされ、南方経済の共通通貨という設立時の目的の達成は既に絶望的だった。さらに、通貨価値の激減により本来プランテーション作物とその取引で成り立っていた南方経済は大打撃を受け、今まで投資蓄積のなかった作物の自給経済移行に伴い、極端な物資不足と半飢餓状態に陥っていた。本来これに救いの手を差し出すはずであった東京は、沈淪の時代を象徴する東條英機による不毛な政争と粛清に手一杯で無為無策であった。また、戦時中は占領地に大きな影響力を保持していた南方軍ら軍部も東條による粛軍で急速に規模を失っていた。
このように見捨てられた南方統治に現場で自由に新制度を行う余地があると見た池田勇人は、亜欧交易の利益をもとに暴落した通貨価値を再建するという事業に取り掛かった。
まず、亜欧交易の商品の値段は大東亜共栄圏内の統制価格ではなく、欧州での市場価値すなわち実際に売れた価格を採用した。このため、市場価格と統制価格の差を利用した投機的貿易が事実上禁止された。のみならず、対欧輸出価格を基に大東亜共栄圏内での商品価格を決定し、対欧州実勢レートをもとに安定化させる効果があった。
南方資本で独自に対欧輸出用の国策会社を設立し馬来庁主導で大規模な輸出拡大をもって利益を獲得した。この利益とは輸出の利益であると同時に、ドナウ連邦などから輸入する際の原資でもあり権利でもある。そしてこの輸入原資を日度銀行の帳簿上の数字に留めるのではなく、証券化して譲渡することを可能にした。馬来庁はまず南方に進出していた日系資本と馬来庁系国策会社にこれを売却した。購入した企業は輸入権を紙くずと化していた国債や各種国策会社・国策金融機関の証券を実勢レートで支払ったため、戦時中に乱発された莫大な国債を亜欧交易の利益で償却するができた。各企業はこれをもとに欧州から機械部品を輸入して生産設備を立て直すことで、経済の根本的な供給能力を回復するきっかけとなった。また、対欧輸入権は日度銀行の特殊口座を用いて事実上の担保権を設定することが可能であったため、企業に強力な信用を与えることができた。
欧州から高い価値のある商品を輸入できる対欧輸入権は、インフレで価値が暴落した円貨より優れた事実上の通貨であるといえた。単なる輸出の利益をこのように通貨とほぼ同等にまで押し上げた池田勇人の政策は、「池田の実験」と呼ばれるようになった。これを名付けたのはドナウ連邦の新聞「ウィーナー・ツァイトゥング」であったとされ、「ブルムの実験」、「ドマンの実験」に続く実験的な経済政策であると批評された。ドナウはこの「実験」の効果について当時は懐疑的だったが、今日では亜欧交易の莫大な利益と強力な信用が大東亜共栄圏経済再建と「沈淪の時代」脱出の契機となったことが明らかとなっている。
南方経済政策で成功を収めた池田は富永恭次内閣が発足して1年が経った1952年に大蔵省次官に就任した。しかし、日銀出身で大蔵大臣に就任した一万田尚登と対立し、わずか1年後に亜欧交易の利益を巡る疑獄「昭南事件」が東京の検察主導で勃発。事の真偽は有耶無耶のまま、池田は次官を辞して調査が打ち切られた。その後池田は南方行政の在野顧問として隠然たる影響力を維持する。1960年の宮城進軍事件ではいち早く岸信介内閣に対陣を要求し、成立した協和党政権では内閣総理大臣を拝命したのだった。