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沈淪の時代

沈淪の時代(ちんりんのじだい)とは日本の時代区分のひとつ。大東亜戦争第二次世界大戦)に勝利した1946年から東条英機から富永恭次に内閣が移行した1951年までの期間を意味することが多い。なお、「沈淪」とは1947年1月1日に渙発された昭和天皇の詔書の文中に由来しており、この呼び名は協和党政権成立後に定着した。

目次

概要

歴史

前史

第二次世界大戦という人類史上未曾有の大戦争の結果、日本は世界最大の勢力圏を手にすることができた。東は布哇、西はインド、南はニューギニヤ、北は北辺に至る広大な空間は、海洋も含めればチンギス・ハンが遠征で打ち立てたモンゴル帝国をも超える面積だった。モンゴルの巨大な遠征を支えたのは彼ら遊牧民の円滑な物流網で、征服事業の結果ユーラシア大陸は巨大な商業空間として結びつけられた。偉大な征服には賢明な商業が伴うのである。

一方、外圧に巻き込まれる形で急速に近代化と総動員国家化を進めた日本には、チンギス・ハンを超える物流網を整備できなかった。むしろ、世界秩序の崩壊に便乗した征服事業は、総動員体制の国力を遥かに超える戦費を要し、アジア全体を巻き込んだ経済の崩壊へと滑り落ちていったのである。

戦争を支えた巨大な統制経済の産業システムは、輝かしい戦勝による軍需縮小を機に大転換を余儀なくされた。具体的には、軍需生産を縮小し、民需生産へ設備と人員を転換せねばならなかった。価格統制による物価凍結に乗じて軍需産業と軍へ乱脈的融資を行っていた金融部門も、これを止めて速やかに整理せねばならなかった。

それだけでなく、前線へ派遣していた大量の将兵も復員させねばならなかった。戦争の勝利と産業転換に伴い、資金と物資と食糧だけでなく人間も移動させねばならなかった。しかも、人間は生き物であるから、食糧を消費する。食糧は配給の統制下にあったが、これは非常に非効率な物流システムだった。配給食糧はしばしば横流しされたり倉庫で腐敗したまま放置されたりして、これらによる食糧の減少は配給の遅配や欠配として現れた。しかも徴兵による人手不足で、1945年以来内地の食糧生産は大幅に減少していた。

以上のように、1946年当時の経済は非常に脆弱な基盤の上にあった。戦勝による物資、金融、人間、食糧の大転換が始まったとき、官僚的統制で雁字搦めにされた経済はその変動に耐えられず、脆くも崩壊したのである。

中央政界の混乱

指導者なき多頭指導体制により行き当たりばったりな拡大を遂げた日本帝国は、反帝協定の調印国として、枢軸国の一員として、そして大東亜共栄圏の指導国として戦勝に至った。しかし、その勝利も言わば「棚から牡丹餅」のような偶然の勝利で、東京の指導部は確固たる戦後構想を持てずにいた。アジアのみならず世界全体が枢軸国の支配する旧大陸と同盟国の支配する新大陸に分断され、国際貿易がほとんど停止したのも不確実性を高めていた。大東亜戦争を指導した東久邇宮成彦内閣は1946年8月、総辞職した。

この難局の中、あえて火中の栗を拾って首相になろうとする者は宇垣一成を除いていなかった。宇垣は特段政権構想があったわけではなく、単なる名誉欲と素朴な野心から長年総理大臣の座を狙っていたのである。長州閥の宇垣のライバルである反長州閥かつ統制派の東条英機(東久邇宮内閣で陸軍大臣)は、あえてそのレースを譲ることにした。目下の状況と宇垣の資質からして内閣が短命になることは目に見えていたからである。

こうして1946年9月1日に大命降下を受けて宇垣内閣が成立したが、早速内地ではハイパーインフレが顕在化しつつあり、警察と経済当局は物価統制維持の戦線をじりじりと後退させていた。

これに加えて、戦前に成立したものの近衛文麿の失態で権力を集中できずにいた大政翼賛会について、これを改革して経済危機を乗り越えるべきとの声が上がり始めた。特に衆議院では大政翼賛会の政治部門である翼賛政治会に対する解体論が、中野正剛岸信介などの「体制内野党」から出ていた。

軍人出身で議会工作に不慣れな宇垣は彼らに釘付けとなり、その他多数の問題が放置されることとなった。結局宇垣はこれを収拾できず、官僚からも見捨てられた。

こうした宇垣に対して総攻撃を加えてたのは東条英機で、1947年4月の衆議院総選挙では憲兵隊と内務省を駆使して自派の政治家を多数当選させ、反対派を激烈な選挙干渉で撃破した。宇垣は選挙の結果、議場が東条とその追随者で埋まったことを確認すると、速やかに内閣を総辞職させたのだった。

こうして内閣総理大臣となった東條英機だったが、選挙での翼賛政治会非推薦候補のほとんどを拘束したほか、当選した非推薦候補も様々な手立てを駆使して議員辞職に追い込んだ。そして彼らは外地への亡命を余儀なくされた。中野正剛は拷問の結果「自殺」し、岸信介も満洲に逃れた。

組閣とともに鮮やかな武断統治を見せつけた東條は、崩壊する経済と混乱する社会に対する武力闘争を開始したのだった。

道復運動とその弾圧

どういうメカニズムであれ、統制経済が上手くいっておらず、しかも崩壊しているという事実はインフレーションによって現れた。価格統制下では物価変動は有り得ないため、実際にはインフレは公定価格ではなく闇市での闇価格において見ることができた。公定価格と闇価格の乖離はすなわち物資の横流しを意味し、物資の不足と産業生産の停止、そして食糧不足という形で可視化されつつあった。

1947年秋には食糧不足が飢餓の現実的な危機となり、闇市場にアクセスできない人々、つまり一般的な給与生活者にとっての生存危機となった。これら飢餓大衆は「道義の復興」を呼びかけた石原莞爾を精神的指導者として道復運動を称した抗議運動に参加し、デモやサボタージュ、ストライキなどを起こした。こうして発生した道復運動関連事件は数多いが、特に下山事件、三鷹事件、松川事件の省線三大事件郡山工機部赤化事件日発赤色騒擾事件など労働運動やサンディカリズム運動に関するものも多い。当局が道復運動を国際サンディカリズム運動の一つに落とし込めたかった意図もあるが、実際に両者は反体制運動として思想と支持者の一部一致が見られていたといえよう。松江事件では武装化した突撃隊が島根県庁を襲撃し、全焼させた。この他にも、失業した朝鮮人、満洲人労働者が暴徒化した三菱美唄炭鉱事件がある。

道復運動は「道義世界の建設」を呼びかけた大東亜戦争に裏切られた大衆による、失われた大義をめぐる闘争だった。しかし東條首相はこれに耳を傾けることはなく、憲兵隊と内務省による無慈悲な弾圧で答えたのだった。

生産停止と飢餓

政府は戦後直後はハイパーインフレに対して楽観的だった。物価上昇=貨幣価値の下落は戦時債務の費用圧縮をも意味するため、戦費償却に役立つと見なされていたためであった。しかし、ハイパーインフレが配給と物資動員を破壊するとようやく政府も危機を理解しはじめた。さらに、日本のハイパーインフレが大東亜共栄圏全体のハイパーインフレを助長している関係があり、アジア圏内交易や日本以外のアジア各国の経済を破壊していることが明らかになりつつあった。インフレ率は東京からの距離に比例し、東京での2倍の物価上昇がビルマのラングーンでは2000倍の物価上昇につながっていたといわれる。

東條はインフレ抑止のため警察力を駆使して闇取引の取り締まりを行っていたが、対症療法には限界があった。そこで市中に出回る通貨量を削減するため、内地における給与引き上げとボーナス支給を禁止し、源泉徴収により給与を1946年水準の7割に事実上削減する緊急勅令が発出された。企業が保有する債券凍結も相次いで給与の支給が不可能となり、生産品を現物支給する工場も見られるようになった。このため、コネのない給与生活者は生活が不可能となり、労働者の退職や郷里農村への帰還が相次いだ。

荒療治的な給与の強制削減の結果、民衆はますます統制外の闇経済へと傾倒していった。生産資材も闇経済へ流出し、工場の多くは稼働を停止した。配給食糧も闇へと吸い込まれ、1947年には配給の頻度が北海道で74日に1回、東京で20日に1回に落ち込み、ほとんど欠配が当たり前となる。工場停止により失業が増加し、失業者は餓死するか、闇経済での商売に身を投じるか、インフレ率が日本より高くも食糧豊富な農村が残る外地への植民を選ばざるを得なかった。

労働者の成人男性に対する標準的な配給では最低でも一日2000kcalだったが、実際の消費量は1946年で1600kcal、1947年冬から翌1948年春には1400kcalにまで低下した。内地全体の食糧量は国民を満たすのにギリギリ足りる量だったが、横流しによる不均衡な配分のために、多くの人々が飢餓水準に追いやられたのである。

慢性的な飢餓状態は健康にも甚大な影響を与えた。一般的な症状として貧血、月経不順、腱反射消失が広く見られたほか、体力低下による感染症の流行も多発した。都市部で流行した感染症として結核、インフルエンザ、チフスが挙げられたが、その他特殊な流行病としてマラリアが見られた。復員兵が南方から持ち帰ったとも、日本在来のマラリアが何らかの原因で有源地の外に進出したともいわれる。

沈淪の時代の飢餓は生産よりも需要と物流における原因が大きかったが、一方で生産面でも経済危機の影響を受け始めた。化学肥料の流通滞貨や家畜用飼料配給の停止、収穫供出の苛烈化は、農民の不満を一気に募らせた。収穫された米の供出を受け取っていたのは農水省の食糧検査事務所だったが、供出量増加を要求する上級機関と据え置きを要求する農民の板挟みになっており、戦時中から困難な調整作業に当たっていた。しかし、ギリギリのところで保たれていた当局と農民の関係はこの頃破綻した。抗議する農民のサボタージュや積極的な闇米販売の増加に東條内閣は激怒し、強権的に食糧を押収するべく憲兵や警察を供出に派遣したのである。農民の汗の結晶である米は、自家消費分を考慮すらされず銃剣の下に略奪されたのである。

こうした食糧供出の苛烈化は、農民を道復運動に参加させる結果を招いた。戦前より石原莞爾の東亜連盟運動が根付いていたため、道復運動が活発だった東北地方では、抵抗した農民による抗議として青田刈りすら行われた。東條はこれらを「アカ」と断じて大量検挙と外地への追放を命じた。検挙された農民は郷里の家族からも引き離され、大東亜戦争で獲得したばかりの北樺太勘察加、北辺へと送られたのだった。

一億総自活へ

国民は食糧獲得のため様々な手段を取っていた。家庭菜園の製作や農村への直接買い出し、闇での購入だけでなく闇売買を生業とする者も少なくなかった。政府による不完全な配給に対して国民が現場レベルで工夫を凝らすことは戦時中から見られたが、戦後の飢餓は国民を国家指導に従う従順な人々から自発的に生存闘争を繰りひろげる自律的主体に変化させた。当局の統制が緩むにつれて人々は公道を掘り返して家庭菜園を拡張したり、休業中の企業も従業員ぐるみで敷地を畑にしたり、さらには軍用地や他人の私有地を占有して耕作するようにもなった。

政府はこうした動きを止めることができず、警察も賄賂を渡さなければ土地問題には関与しなかった。政府は飢餓の原因を内地の過剰人口に求め、食糧危機に乗じて内地住民に対しては外地への移住を促した。内地への復員が参謀本部の指令で度々停止していた南方軍に対して、東條首相は兵士を内地に戻すのではなく内地の家族を兵士の待つ南方へ移住させるよう指示すらした。ただしこのアイデアは将兵の激烈な反発を引き起こしたため、わずかな個人レベルの例外を除いて実現しなかった。

そのほか、特徴的な移民方策として報国農場があった。報国農場は満洲国の開拓農場で、企業が従業員を報国農場に送る対価として農場の収穫物を受け取るシステムである。報国農場に送られた農場労働者の食事は開拓農場で自活して賄い、一定期間経過すれば内地に帰国できるため、この時代には人気のある事業だった。企業が受け取る収穫物は報国農場から本来直送されるべきではあるが、現実的には困難である。従って送り出し企業は満州からの食糧の輸入の権利、より正確には食糧の優先配給権が付与されることとなった。さらにこの優先配給権は国債として市中で売買されていた。

また、軍は闇経済へ積極的に参加した。体力のある青壮年を多数抱える日本軍は、軍用米の補給が減少したため「現地自活」を各部隊に命じた。はじめは兵士を用いて軍用地で耕作させる程度だったが、さらには収穫した作物の販売、軍用農地の民間への貸し出し、軍用船での漁労や運輸業、植民地で採掘した資源の内地での販売など、軍の自活的商業活動はより大胆にエスカレートしていった。1949年には北辺総督府で産出した金塊を陸軍部隊が地域ぐるみで横領した「網走事件」が発覚し、同年に東條首相は憲兵隊に直接命じて腐敗軍官の摘発と更迭を行った。こうした軍部の粛清のほか、その後は経済事情が底を脱して好転していったこともあり、軍部の手前勝手な経済活動は1950年代初頭までには沈静化していった。

統制経済の解体にともなう国民の「一億総自活」によって、国民による自然発生的な商業網が生まれていった。それまで流通を差配していた統制会が解体され、業界ごとの閉鎖的な寄合によって成立していた経済圏は自由な入退場を許すようになった。ハイパーインフレによる経済崩壊は内地の産業と流通を再構築する新陳代謝の効果をもたらしたのである。

人々は失業者や帰郷した復員兵と合流して、次第にその自活を組織化していった。休業した工場の工員で私企業を丸ごと結成したケース、家族や親類、地縁や軍隊時代の同期などきっかけは様々であったが、中にはいわゆる任侠による組織や不良青年による「愚連隊」などもあったという。

自衛隊の結成

経済危機に伴い急増した刑事犯罪は窃盗だった。配給を待つよりも危険を冒して他人から盗む方が簡単であると理解した人々は、次第に日常的に窃盗を犯すようになっていった。当初は管理者の横流し程度だったが、やがては倉庫の襲撃にリヤカー丸ごとの奪取など、その様態も大胆となっていった。

増加する窃盗に対して人々が自衛するのは自然の成り行きだった。個人よりも集団のほうが攻めるも守るも有利であるのは自明である。人々は職場や地縁ごとに集い、所属共同体の財産や利益を守るため昼夜交代で歩哨を始めるようになった。こうした自警団はやがて「自衛隊」と呼ばれるようになった。

自衛隊の武装は竹刀やハンマー、竹槍が基本だったが、襲撃側も武装化・集団化するにつれて短刀や銃剣(いわゆるゴボウ剣)、拳銃に小銃など過激化していった。軍が戦時中の大量生産で発生した余剰武器と食糧を交換したため、市中に大量の武器が溢れていた。自衛隊が盗賊を返り討ちにして殺害した事件が多発したが、裁判所はすべて自衛隊側に無罪判決を出したので、何ら法律的裏付けもなく武装していた自衛隊の人々は自信を獲得し、容赦なく窃盗犯を「即決処断」するようになった。

となると襲撃者側も重武装かつ無慈悲になるのは当然である。というよりかは、襲撃者と防衛者は往々にして兼ねているというのが正確である。自衛隊は自らの利益を警備しつつ、何か物資に不足があれば同じメンバーで「夜襲」に出かけるのだった。襲撃対象は同じ市内村内を避け、なるべく誰とも親戚や知り合いがいないであろう十数キロ離れた地域を選ぶのが定石だった。警備がなければ奪い、少なければ殲滅して奪い、多ければ対象を変更する。とはいえ暗夜にあっては警備人数の数え漏れもよくあることで、「敵」戦力を見誤って血みどろの乱闘戦になることも珍しくなかった。血気盛んな青年(江戸時代には若衆と呼ばれた年齢層)は、誰よりも先に突撃し、死を恐れず「勝利」を達成することが誉れだった。

政府は1948年頃まで道復運動の弾圧を優先し、こうした治安の急速な悪化への対応を二の次としていた。検察は経済危機の原因を反政府運動参加者のサボタージュとしてスケープゴート化する工作に熱心だった。だが、事態は当局の筋書きに基づく見せしめ裁判で収拾できる段階を既に超えていた。しかしながら、警察も警官が襲撃で殺害されない限り地域の武装闘争には無関心だった。

社会秩序の再建

1948年春には飢餓のピークを過ぎた。というのも、配給制度の崩壊を補う闇での市場取引が機能を本格化させ、食糧の流通不全を克服し始めたためである。また、春の気温上昇で植物や動物、昆虫が目覚め、栄養不足をこれらの採取で補えるようになったことも理由の少なからずを占めていた。

わずかながら着実に社会が落ち着きを見せ始めると、統制の外で自由勝手に商売をし武闘も行う人々の社団に対して、政府は弾圧でなく利用・共存へと国策を転換していった。すなわち、自衛隊の武闘を仲裁し、在地有力者を形式上頂点として組織同士の秩序を編成していった。こうした仲裁に骨を折っていたのは警察である。自衛隊や闇取引を行う商人などは、武闘を止めて賄賂を上納することを条件に警察の庇護を受けられるため、進んでこれに参加していった。こうして、経済危機のために止む無く経済犯罪を行っていた一般大衆と、彼らを包摂して暴れていた一握りの犯罪者や帰順を拒否する任侠に分離させることができた。

以上のような食糧供給の改善や社会秩序の再建と連動しつつ、大東亜共栄圏全体の経済も回復の色を見せ始めたのがこの頃である。これに対する経済学的説明として、満洲国や中華民国における生産力の増加、嶺北シベリア)からの原材料供給、ドナウ連邦など欧州との交易、金鉱山開発による金正貨準備の改善が指摘されている。これらのうち最も効果があったのは金正貨準備の増加であろう。貨幣は外貨や金貨などの準備と流通圏内の生産力に依存しているが、これらの限界以上に軍需生産を行ったのがハイパーインフレの原因だった。金準備の改善は貨幣価値の底上げの効果をもたらすとされる。

1949年2月16日に政府は預金封鎖を発表し、翌17日に実施。戦時中に発行を開始した不換紙幣である日本銀行券の発券を停止し、日本銀行兌換券を発行するデノミネーションを実行した。兌換券とは金貨との交換比率が設定されている紙幣である。ただし、実際に紙幣を金貨に交換することはほとんど不可能だったが、日本銀行兌換券は発行数を大幅に抑制して運用していたため、これを機にインフレ率は一気に低下することとなった。これを新円切替という。

相変わらず物資は慢性的に不足していたが、それでも再びハイパーインフレへの突入を避けられたのは先述した流通の改善のほかにも、政府が現金流通抑制のために様々な手段を尽くしていたためである。預金の引き出し制限は新円切替後もしばらく続き、戦時中に発生した国債や戦災保険の支払いを新たに起債した国債や免税権で立替え、企業間の決済を日銀に預けた国策による手形で行う「特殊決済」で行わせた。これら施策のために市中の現金流通量は強力に抑制され、ハイパーインフレ再発を阻止していた。こうした数々のアイデアを生み出した大蔵官僚の経験は、1960年に成立する協和党政権が経済を再び統制へ向けた際に再び役に立つこととなる。

なお、日本が新円切替を実施した1949年には、同じく経済回復を進めていた中華民国でもデノミネーションが実施された。そこで通用した通貨を「金円」(金特別兌換券とは別物)と呼んだ。

復興要因

外地への人口移動

慢性的な食糧不足が解消へと向かい始めた原因の一つは外地への移民だった。先述の報国農場に見られるように、満洲国を代表とする外地では食糧生産量について一定の余裕があった。無論、満洲国も食糧不足とは無縁ではなく、内地向けの飢餓輸出で住民の多数を占める漢族系(満洲国国内でいう「満人」)農民は食糧不足に苦しんでいたが、同国の特権層である日本人は内地での生活よりもより有利な形で食糧配給を受け取ることが出来た。また、満蒙開拓移民など自らの手で直接作物を収穫する立場では食糧の横流しも可能だった。こうした情勢のため満洲国など外地への移住は大いに人気となった。

西暦 入満者
1946 80万
1947 360万
1948 360万
1949 250万
1950 100万
1951 100万
1952 80万
1953 80万
1954 50万
1955 50万
1956 50万
1957 20万
1958 10万
1959 10万
1960 10万

上記は1946年から1960年にかけての内地から満洲国への移住者(大和民族に限る)である。このとき移住した者の多くは経済破綻による失業者や食糧供給のか細い地方都市住民であったと言われている。また、東條政権による軍縮政策で解体された関東軍も、日本軍から満洲国軍へ転籍する形で現地化し、移住者の数字に加えられている。

内地から外地への移住は、満洲国だけでなく北樺太や勘察加、南方などでも見られた動きだった。この結果、内地の都市人口は減少して食糧供給のコストも減少し、食糧不足に一定の歯止めが掛けられることとなった。

国内産業の市場経済化

経済破綻の結果、戦時中に整備された非効率的な経済構造が解体され市場経済に基づく最適な形に再編されたことも経済復興の一因となった。本来、日本の戦時経済とは既存の経済団体を丸抱えしたものであったため、開戦以前の非効率的な旧弊を温存するだけでなく、経済団体の発言力を戦時強力の名目で確保してしまうため、機動力に欠けていたのである。戦時中に整備された統制会社とは各業界団体にそのまま物資配分の権利を与えたものであったため、計画外の横流しや闇市場への流通が頻発した。また、統制会社関係は政府の補助金を受け取るために乱立したペーパーカンパニーの拠点ともなっていた。 東條英機が戦時経済体制の固守から解体の追認へとなし崩し的に移行する前から、財界では意欲ある経済人たちが戦時経済の解体に乗じて積極的な経済活動を行っていた。この傾向は戦時経済で過剰投資された航空機生産設備を転業した自動車産業や日本軍の軍事技術を転用した電機産業で著しく、本田技研工業東京通信工業などが知られる。 市場経済の浸透は、それまで統制価格で歪められていた製品の価値と流通網を破壊し、効率的な配分を実現することを意味していた。このことはハイパーインフレの沈静化にも役に立つこととなった。 この他、経済危機を踏まえて大企業を含む大量の企業が再編されたほか、従業員の食糧供給の確保という目的のためにも外地へ設備や従業員ごと分社する企業も相次ぎ、さらには商機を求めて企業ごと外地へ移転する例も見られた。こうした現象は先述の外地への移住熱に拍車をかけた。

古里馬金山開発と金本位制復帰

そのほか、日本帝国国内における金山の開発も円貨の再建と経済の回復に寄与した。黄金は金正貨と呼ばれ貨幣価値を担保する中央銀行の準備として重用された。第二次世界大戦を経て世界を包括した資本主義経済が破綻し、金正貨に相当する強力な外貨がなくなったことから、金正貨の重要性はさらに増していった。

大東亜戦争の結果日本が獲得した旧ロシア共和国領土の沿アムール州カムチャツカ県には金山が複数あることが知られていた。ロシア共和国時代から金山の開発は行われていたが、ロシア本土から隔絶された辺境であり、現地のインフラ不足からその開発は振るわなかった。日本は戦勝の結果、旧ロシア共和国のヴェルホヤンスク山脈以東のオホーツク海沿岸を併合し、カムチャツカ半島には勘察加庁を、それ以外の地域には北辺総督府をそれぞれ1947年に設置して統治にあたった。ちなみに、気候と土壌に恵まれた勘察加庁には内地から開拓民が精力的に送り込まれていた。同地域の金山の中でも北辺総督府のマガダン漁港(後の真潟市)近くにあるコルイマ金山は特に有望とされ、北辺総督府はこの開発に重点的にあたることとした。これが有名な古里馬金山である。

当時の北辺総督は東亜解放の英雄板垣征四郎陸軍大将である。板垣の北辺総督就任は、彼の政治的影響力と国民の支持を東條英機が恐れ、なるべく東京から離れた辺境に赴任させたためといわれる。総督といえど北辺総督府領は一面の北極圏内の荒地であり、まばらな漁村を除いて本格的な都市はなかった。総督府の行政部門は軍縮で転任した少数の元軍人や板垣を個人的に慕うアジア主義者しかなく、その広大な土地を支配するためにはあまりにも少なすぎた。内地の混乱で中央からの援助も頼れないため、北辺総督府は旧来の軍人同士のコネを活用して北辺開発を行うこととなった。

大東亜戦争のシベリア戦線では大量のロシア軍将兵が捕虜となり、戦後も満洲国国内の強制収容所に収容されていた。ロシア共和国が崩壊したため彼らを保護し引き取る国家はなかったのである。そこで、元ロシア軍の捕虜の活用策として、強制労働による土木インフラ整備が考案された。こうしてロシア人捕虜は北辺総督府に送られ、日本軍兵士の監視下で無からのインフラ建設と古里馬金山開発を行うこととなった。過酷な環境で強制労働を行った捕虜の多くは、平均寿命2年間と呼ばれるペースで次々と死亡したほか、監視役の日本軍兵士も過酷な環境のために少なからぬ死亡者を出した。突貫工事に告ぐ突貫工事と人命を全く無視した労働環境のおかげで北辺開発は軌道に乗り、1948年から金を内地へ出荷できるようになった。

このようにして大量の人命を犠牲に古里馬金山の開発は成功したため、日本の金正貨準備は増加し、通貨価値再建と1949年のデノミネーションを成功に至らしめたのだった。なお、板垣征四郎はこの功勲もあり、富永恭次政権下の1952年に東條英機と並んで元帥となった。

「池田の実験」と亜欧交易

詳細はwiki:亜欧交易を参照。

南方では馬来庁長官池田勇人の活躍の結果、ドナウ連邦など中央ヨーロッパ諸国との交易スキームである亜欧交易が整備された。内地の経済破綻にもかかわらず交易は順調に進展しており、大東亜共栄圏で不足していた機械部品を輸入することでアジア経済全体を底上げした。さらに、池田は交易の利益を事実上の外貨準備として利用できるように整備したため、円貨の価値回復へとつながった。

余波

戦後翼賛体制の成立

国内産業構造の変化

束の間の「自由」と政治的トラウマ

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